英語を話せる数少ない日本人"福沢諭吉"
1862年9月18日、日本の使節団(文久遣欧使節)はサンクトペテルブルクからベルリンへの道中でリトアニアのカウナスに滞在し福沢諭吉も帯同していました。
第二次大戦中に虐殺を逃れようとするユダヤ人に"命のビザ"を発給した外交官杉原千畝が日本とリトアニアの関係を象徴するもっとも有名な存在ですが、二国間の関係はその100年前から始まっていたのです。
その第一歩は鎖国が終わってすぐのことでした。200年以上もの間実施されていた徳川幕府が掲げた鎖国主義は1850年代に終わりを迎え、政府は海外へ使節団を送るようになり西洋文化や新しい国交への調査に乗り出しました。
1860年にはアメリカ、1862年には34人の日本人使節がヨーロッパへ送られ、フランス、イギリス、オランダ、プロイセン、ロシアを巡りました。当時のリトアニアはロシア帝国に属していて、サンクトペテルブルクからベルリンへの道中だった1862年9月18日、日本の使節団はリトアニアのカウナスに滞在をしたのです。
リトアニアという国が初めて日本と関わった瞬間です。
福沢諭吉の日記にも記されていた!
使節団は当時、その年に完成したばかりのカウナス鉄道橋(Kaunas railway bridge / カウナス駅西側)を渡っていて、その造りに感銘を受けたことや駅の近くの小さなカフェを訪れたことも記されています。
どうやってこれらの情報を得たのか?
それは、当時英語を話せる数少ない日本人としてアメリカ派遣で良い結果を残した思想家であり著作家でありジャーナリストでもある福沢諭吉が、ヨーロッパ使節団の公式通訳になったためです。
使節団派遣の後、彼は10編にも及ぶ「西洋事情」("Things Western")を書き上げ、西洋全般の専門家としても認知されるようになったのです。慶応義塾福澤研究センターに保管されている福沢の日記にはカウナスの名前が挙げられています。
リトアニアと日本をつなぐドキュメンタリー
興味深いことに、ここでまた新たな日本とリトアニアの関係が現れます。
20世紀初頭、リトアニア人エンジニアで民主主義者のステポナス・カイリス(Steponas Kairys)は日露戦争での日本の勝利に深く影響を受け、日本を訪れたことがないにもかかわらず、日本人の強さと抵抗力の源は何なのかを調査し始め、その後いくつかの書物を出版しました。
福沢諭吉、ステポナス・カイリス、杉原千畝、さらにはリトアニア人旅行家マタス・シャルチュスはドキュメンタリー映画「カウナス 〜杉原と日本の街〜」(“Kaunas. The City of Sugihara and Japan”)になりました。
第二次大戦以前の日本とリトアニアの関係を追ったこのドキュメンタリーは、ヴィータウタス・マグヌス大学アジア研究センターの主導で2018年4月26日にロムヴァ・シネマ(Romuva cinema)にてプレミア上映が行わ、その後日本で公開予定。
2018年4月3日
Visit Kaunas
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